皆さま、はじめまして。背番号7の森田 達見です。
まずは、昨年度目標としていた関東リーグ昇格を果たせたことをご報告させていただくとともに、感謝を申し上げます。何を書こうか、このチームに入ってからたくさんのことがあり決めきれないので、大雑把にこのチームでの振り返ってみたいと思います。
長くなるかもしれませんが、最後までお付き合いいただけると幸いです。
慶應ソッカー部を卒業し、プロにならずに就職した時点でサッカーはおしまいでしょ、と自分で決めていたので元々は社会人サッカーに乗り気ではありませんでした。それでも、現役当時からお世話になった諸先輩方に熱心に誘っていただいたこと、そして監督の福田さん、人見さんからこのチームの方向性や、その過程における期待を仰っていただいたので入団することにしたことを記憶しています。
関東昇格を果たした今でこそ、この時の決断を本当に良かったと思えてます。大学までのサッカー中心の生活とは違い、なんでもない社会人生活を送るところでしたが、改めて刺激的な世界に引きずり込んでいただけて、感謝しています。
さて、僕はこの3年間、サッカーをしに中津川(岐阜)-東京を毎週往復する、所謂「地方組」の1人でした。資金面における多大なるサポートに、感謝してもしきれません。チーム関係者、スポンサーの皆様には心より感謝申しあげます。
ここだけの話、実際3年間往復するのはかなりきつかったです。日曜日の夜遅くに試合をし、終電で岐阜に帰り、午前1時前に岐阜の家に着くのが毎週のルーティーンでした。平日もチームメートはフットサルやジムでトレーニング出来る中で、岐阜県の山奥にそんな環境があるわけもなく、1人で黙々と週末に向けて何かするしかありません。正直、サボろうと思えばサボれるし、誰にもバレません。(笑)そんな環境の中でコンディションを落とさないように取り組もうと思えたのは、間違いなくチームのみんなの熱量がすごく、引っ張ってもらったからだと思います。3年間かかりましたが、これらが報われて嬉しい、というよりはホッとしています。
さて、話は変わりますが、このチームの良さは「サッカーへの熱量」だと思っています。社会人サッカーは、学生やプロと違い、時間や仕事、プライベートなど数多くの制約が存在するので、犠牲が多いです。その中でこのチームのサッカーへの熱量は群を抜いており、それがチームの強みになっていると思います。これは今のチームだけでなく、前身の慶應BRBを支えてきた方々から受け継がれているものだと思います。慶應東大OB以外の選手も増えたLB-BRBですが、チームの根幹にある部分は変わらずに続いていって欲しいと思います。
僕は今のところは2015シーズンをもって、このチームから離れようと思っています。まだまだ上を目指すチームですので、今の自分のようにモチベーションやサッカーへの犠牲心に不安が少しでもある場合、中途半端にいてもチームの強みを薄めてしまうと考えるからです。
本当にこの3年間、素晴らしいチームメート、応援してくださった方々に支えていただき、幸せでした!
これからもLB-BRBの応援をよろしくお願いします!
また、監督のよく言う、アイデンティティが見つからなくなったら、サッカー始めるかもしれませんので、その時もよろしくお願いします!
3年間ありがとうございました!
<監督コメント>
基本的に私は選手を「使う」という言葉は嫌いですが、森田達見は、いわゆる「使いづらい選手」なんだと思います。そもそも、監督の思い通りに選手を「使いたい」と思ったところで、選手なんて別の人格ですし、思い通りになんてならないのが常ですが、森田はその最たるものでした。
とにかく性格的に「使われる」ことが嫌い。
無理に聞き分け良く「使われよう」とプレーすると、どことなくバランスを崩す。
森田はそんな男です。
とは言え、誰よりも、周りに「活かされる」、否、「生かされる」ことが必要な男でもあります。
身長は低いし、フィジカルも弱い。
だからこそ、うまく「生かして」やらないとピッチから完全に消えてしまいます。
「使われる」のではなく「活かされる」。
この微妙な違いがおわかりになるでしょうか。。。
そんな森田が歳を重ね、周りを活かすことで、自身も活きる道を見出しつつあった2015シーズン開幕当初。
平日の岐阜における一人ぼっちのトレーニングと週末の岐阜・東京間片道3時間の往復生活が、彼の何を変えたのか。
「今季は森田で。」
そう思った矢先に現れた大型新人達。
砂川優太郎(中央大学)、川田悠介(慶應大学)、佐藤聖(東京学芸大学)、曽山啓太(筑波大学)。
彼らは容赦なく森田の「生きる」場所を侵食していきました。
これが勝負の世界。
2015年11月28日。
我々は市原の地で関東リーグへの扉を開きました。
しかし、その決戦のメンバーリストに森田の名前はありませんでした。
彼の(往復6時間×3年間)の苦労を考えれば、5分でもピッチに立たせてやりたいと思うのが親心。
しかし、試合前にどうイメージしても、彼をピッチに送り出す可能性は他の選択肢に比して低かった。
そして、当日のキックオフ1時間半前に腹を括ってメンバー表提出。
その決断が果たして正解だったのかどうかはわかりません。
ただ一つ言えることは、自分なりに勝利を追求する過程において「無駄な雑念」は排除した決断であったことに疑いの余地はありません。
結果的に、森田は私が監督として生きていく上で必要な選択を迫り、気がつけば、私が監督として活かされることになりました。
この一年間、私は、三上、加美、森田、神舎と言った地方組をチームに召集し続けました。
彼らは、平日は地元で孤独にトレーニングに勤しみ、毎週末に電車に揺られて上京してくるという生活を続けたのです。東京組よりおそらくコンディションが悪いであろう彼らを召集し続けたのには意味があります。
日本代表の海外組は経験とクオリティをチームにもたらします。
我々LB-BRBの地方組はサッカーに対する情熱とチームへの愛情をチームにもたらしてくれました。
我々のアイデンティティを体現する存在が、まさに彼らだったのです。